〜杜若・女郎花・忠度より、

ドラマリーディングのための三つの話〜

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■作、演出         田村 和也

■舞台監督        鶴巻 昌洋

■音楽(作曲、演奏)  大作 綾

■宣伝美術        吉田 義浩

■制作           大作 綾

 

■出演               大作  綾
                   今井 明
                   石附 弘子
                    
 

■主催  劇団 共振劇場

■後援   三条市
       三条市教育委員会
      

 

昔から飽きっぽい性格である。小さい頃さんざん親にそういわれて育った。親にせがみにせがんで買ってもらったおもちゃも二、三日でそのあたりに置きっぱなし。もう興味が無くなってしまっている。そのたびに「おまえは飽きっぽい」と言われて育ったので、すっかり自分は飽きっぽい性格であると自分で決めてかかっていた。しかし考えてみると、大体子供ってそういうもんなんじゃないか。一つのおもちゃにいつまでもかかわっていられないのが子供というものだろう。さらによく考えてみるとうちはそれほど裕福ではなかったのでそんなに次々に飽きるほどおもちゃを買ってもらったわけではない。

なあんだ、「おまえは飽きっぽい」というのは親の作戦のような気がしてきた。そもそも飽きるほど何かをしたという記憶がない。同じ年代の子供が一生懸命やっていた遊びを、のめり込むようにやっていたかというと、そうではない。まあ、やったことはあるとういう程度のものばかりだ。(これは飽きっぽいってこととはちがうと思うのだが)川で魚釣りしたり、田んぼでカエルやザリガニを捕ったり、ビー玉で暗くなるまで遊んだり、どれもこれも、のめり込むようにしてやっていた訳ではない。のめり込むものがない子供はどうするかと言えば、大概はテレビを見る。

全ての番組がおもしろいわけではない。だから結局、のめり込まずに画面を見続けるということになる。テレビを見終わって退屈しのぎに外に出る。テレビの中の風景と、ごちゃごちゃした街の風景。どちらもなんだか少し寂しい感じがした。当時の家は川の近くにあり、田舎の商店街を抜けると草ぼうぼうの土手にでた。橋があり、鉄橋があり、その向こうには山が見え、何よりも川の流れと河原の広がりがなにかほっとした感じを与えてくれたような気がする。草ぼうぼうの土手だったが、所々に小さな花が咲いていた。残念ながら名前が言えるのはたんぽぽくらいである。

昔の人はどうだったんだろう。どんな風に風景とつきあっていたのだろうか。京都の有名な庭などを見ていると今とは全然違うつきあい方が見えてきて、圧倒される。そのエネルギーのすさまじさ。彼らにとっては花、木、庭が世界であるかのようだ。庭と自分が寝起きする場所。そのどちらに精魂と財力を注ぎ込んだかというと、明らかに前者なのではないか。そう思わせる庭がいくつもある。花や木は、彼らにとって同じ世界の住人なのだ。こちらが愛情を注ぐだけではない。きっと向こうからも愛情を注いでくれる存在だったに違いない。

彼らのようなつきあい方は、私にはできない。しかし年を取り、自宅の庭の赤い花や木漏れ日にほっとしている度合いは、ここ最近増してきているような気はするのである。

 

田村 和也
(チラシより)

 

たまたま花というタイトルを付けてしまったのだが、それは能には花にまつわる話が多く、その話がこちらのイメージを駆り立てたからで、決して花が特別好きと言うことではない。花の名前もよく知らず、子供の頃は、「花は花でいいじゃないか」と変な開き直りをしていた。はっきり言っておくがこういう態度は間違いである。やはり開き直りはよろしくない。小学校の頃家庭科の宿題がうまくできず、「結婚したらお嫁さんにやってもらうからいい」と担任の先生に言った覚えがあるのだが、「あなたが大きくなる頃は、もうそういう時代ではありません」と優しく諭された。そしてその通りの時代になった。というか、それより以前にずっとお嫁さんがいなかった私には時代のことをとやかく言う資格はない。先生すいませんでした。やはり物事がうまくいかない末の開き直りから出た言葉や認識はだめなのである。

であれば雑草などという言い方は誠によろしくないのであって、一つ一つ名前を言うべきなのであろう。草刈りなどと十把一絡げに言ってはいけない。今日はブタクサとタンポポのお化けと、繁茂しすぎたクローバーを刈り取る、といわねばならないわけだ。と、ここまで書いてちっとも人格が成長していない自分に気づく。これじゃあ開き直っているままじゃないか。まあ冗談はさておき、花の名前を一つ覚えればほんのちょっとだけでも世界は広がるのかなあという気はするものの、やはり花に人並み以上の関心はわかない。

ただ花や木を見てほっとすると同時に、なんだか無性に酒が飲みたくはなる時はある。春、桜を見るとぼーっと桜を見ながら冷や酒を飲みたくなる。夏、樹木の葉っぱが濃い緑色になり、その葉っぱが風にざわめく様を見て、「ぼーっと」しながらビールを飲みたくなる。秋、赤や黄色に燃えた山の風景を見て、思わず川魚の洗いを肴に熱燗をやりたくなる。何で紅葉を見ると、川魚の洗いが食べたくなるのか自分でもわからないが、何故か川魚の洗いや刺身のようなものが食べたくなる。海の魚でないのが自分でも不思議なのだが・・

まあ、花を愛でるというより景色を肴に、「ぼーっと」酒が飲みたくなる。要するに飲みたいだけである。とても花の精が語りかけてくる風情などない。昔の人はきっと花や木を見なが様々なことを考え足り悟ったりしたんだろうなあ。私はただ「ぼーっと」するだけであるが、最近、その「ぼーっと」もなくなってきた。あ、もちろん性格はぼーっとしているのだが。一番最後に「ぼーっと」していたのはいつだろう。大事だと思うんだがなあこの「ぼーっと」も。まあこれだけは、どんなに時間がたってもやり方を忘れるということはないので安心である。

田村和也
(公演当日配布パンフレットより)

 


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