霙まじりの雑踏の中に、
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■作、演出 田村 和也 ■舞台監督 風間 睦勇 ■舞台監督助手 鶴巻 昌洋 ■照明 金子 未穂 ■音楽 大作 綾 ■音響 小山 はなえ ■小道具 高橋 美紀 ■美術 田辺 雅史 ■宣伝美術 吉田 義浩 ■制作 大作 綾 ■出演 小林 春香(37歳) 大作 綾
■協力 県立見附高等学校 ■主催 劇団 共振劇場 ■後援 燕市教育委員会 |
子供の頃、欲しくて欲しくてたまらない本があった。近所の本屋で見つけたのだが、シリーズものになっている一種の図鑑のようなものだった。本屋のさして高くない本棚に、そのシリーズはずらりと一揃え、並べられていた。 さして高くないというのは、子供向けの本がそんなに高いところに並べられているはずがないと今思うからなのだが、そのさして高くない本棚の本を思い切り背伸びしてとっていたのだからきっと小学校の3年か4年くらいの頃だろう。 子供向けのその本は「〜の世界」というタイトルだった。よく覚えていないが、たとえば「魚の世界」とか「星の世界」とか。そのシリーズの中で手にとって本屋の床に座り込んで読みふけり、それでも満足できずに家に持って帰りたくてしようがなかった、その本のタイトルは「未来の世界」。およそ30年くらい先の明るい未来の世界、21世紀が、きれいなイラストでいっぱい描かれていた。その当時の自分がおかれている世界とあまりにも違っていたが、嘘臭いとは思わなかった。 10歳前後の子供にとって30年という長さは永遠と同じ意味だ。きっと私が大人になる頃にはそういう世界がやってくるのだと信じていた。ヘドロから生まれた怪獣が映画館のスクリーンに現れたり(見に行けなかったけど)、少年漫画では「生まれてこない方がよかったのに」という台詞が決め台詞で使われたりして、暗く、ざらざらした乾いた感じもする、そんな時代だったが、それだからこそ明るさを志向したのだろうか。 「人類の進歩と調和」そんな声が聞こえてきたのはそれからまもなくだったような気がする。月の石をみんなが見に行き、太陽の塔を見上げ、三波春夫は溌剌と歌っていた。大阪万博、私は見に行けなかったが、たくさん絵はがきを買ってすっかり行った気になっていた。 あの頃の未来が、今だ。確かに当たっていることもある。壁に掛ける薄いテレビはあるし、癌も克服とはいえないまでも、治療法もいろいろあるようだ。でもはずれてることもたくさんあるし、なによりあんなにピカピカしてないなあ。いろいろ現実が少しずつ人間を裏切っている今日この頃ではある。「人類の進歩と調和」、懐かしいですなあ。 ところでそんな風に本屋に座り込んで一冊の本に夢中になるようになったのも、小さい頃から本をよく買ってもらっていたからだろう。小学校低学年、あるいはその前から、子供に良いと言われている児童書、「〜推薦」なんてシールが表紙に貼られている本を、よく買い与えてくれていた。 子供の頃、手を伸ばせば届くところにいつも本は積み上げられていた。本を買ってくるのはもっぱら父だった。勤め先の近所に本屋があったからそこで買ってきたんだろう。買ってくるたびに、「この本はとても良い本だ。云々」と必ず何かうれしそうに講釈をしていたから、想像するに、おそらく本屋の店員さんといろいろ話をしてから本を選んでいたんだろう。まあ小さい子供は親が良いと言えばそうかと思う。暇な時には本を読んで、知らず知らずのうちに本を読むのは苦痛でなくなっていた。 ところで子供というものはまだ字が読めない頃、いや読めるようになってからも大概、親に本を読んでくれとせがむものであるが、私の場合は、どうも父にせがんでいたようだ。布団に入ってから聞こえてきた声は父の声だった。 話は戻るが、あの「未来の世界」、実はその後親に買ってもらったのだが、今どこにあるんだろう。実家の物置の奥で埃をかぶってひっそりとある、なんてこともないんだろうな。 田村 和也 |
道路特定財源でもめている昨今である。そういえば子供の頃の道路はまだまだ未舗装道路が多かった。車に乗ることのない子供のことなので舗装だろうが未舗装だろうがあまり関係はないのだが、遠足の時は別だった。バス遠足である。だいたい一時間くらいであろうか、そのくらいの距離をバスで移動して、お弁当を食べて、果物を食べて、お菓子は300円以内だったか、まあそんな遠足だった。バスガイドさんがいて(確かいたと思う。バスガイドなんて言葉知ったのはその頃だ。僕は車掌さんという言葉しか知らなかった)歌を歌って、そんな遠足だった。 道路は舗装道路と未舗装道路が半々くらいだっただろうか。あるいは未舗装道路の方が多かったかもしれない。いつもバスはでこぼこ道で揺れていたような気がする。たまにバスがすーっとなめらかに走ると、「おおーっ」と少し控えめな歓声が聞こえてたくらいだからあるいは舗装率はもっと少なかったのかもしれない。 そんなバス遠足だったからクラスの中に必ず気分の悪くなる子が一人や二人は必ずいた。なんか後ろの座席から声が聞こえたり、先生がビニール袋を持って移動したり、その場を目の当たりに見たことは無かったが、毎回必ずあったような気がする。そういえばあの頃、ビニール袋は透明だったなあ。遠足のしおりの文字はもちろん全部手書きで、あれは謄写版刷りだった。昔の先生はそうやってガリを切り(意味わかります?)プリントを作っていたわけである。 どこに遠足に行ったのか、よく覚えていないが、山の時もあれば、河原というのもあった。そういえば、遠足ではないが、学校の近所の小さな山にクラスで上ったことがある。あれ、何だったんだろう、学校の行事じゃなくて、クラスだけで午後から登ったのが、そういうことが何度かあったような気がする。遠足じゃないし、バスを使うほどの距離ではないから、おそらく学校からその山までは歩いていったのだろうが、子供の足で行くには相当の距離である。お弁当やおやつがあるわけではないが、結構遠足だった。歩く道は登山道というほどではないがもちろん未舗装の道で回りにも赤茶けた土がむき出しになっていた。 今、その道はアスファルトで舗装されている。車ですーっと頂上まで登ることができるようになっている。理由はわかる。山の斜面が畑になっているからだ。走路が舗装されていれば、農家の軽トラックが簡単に畑まで入っていける。不必要な労苦を農家の人たちに強いることはできない。でもなあ、とも思ってしまう。そういえば土手道も今はきれいに舗装されている。理由は同じく軽トラックの運転が楽だからだろう。でもなあ、軽トラックだったら、別にでこぼこ道でも走れるんじゃないの、そう思ってしまう。最近はランニングを楽しむ人たちもいるのだが、ランナーにとってはやっぱり舗装されていた方が良いのだろうか。よくわからない。せめて山道や土手道くらいは砂利道であっていいのでは、と思ってしまう私はやっぱり子供なんでしょうなあ。 そうやって山の斜面や河川敷の畑でとれた新鮮な野菜や果物は街の真ん中にたつ市に並び、その市は小さな子供でもスムーズに歩くのが困難なほど混み合い、まるでお祭りのように賑わい、テントが日光を遮って、陰ができ、あちこちの陰でいろいろな話し声が聞こえてきた。うるさいと言うほどでないが、常に生の声が耳に張り付いていた。 今、地元の野菜は影のできないスーパーに新鮮野菜として並んでいる。店内は明るく、床はぴかぴかしたリノリュームで、サンダルで歩くとぴたぴたと音がする。 ああ、なんか無性に砂利道を歩きたい。雨の日には水たまりのできる砂利道である。 田村 和也 |
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