庭の砂場に赤い花咲いた

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■作、演出         田村 和也

■舞台監督        鶴巻 昌洋

■照明           金子 未穂

■音楽(作曲、演奏)  大作 綾

■音響           大平 佳奈

■美術           田辺 雅史

■小道具          高橋 美紀

■宣伝美術        吉田 義浩

■制作           大作 綾

■出演            三上 恭子(38歳)    大作 綾
                            田口 奈緒子(21歳)  大港 摩弥
                            高橋 夏(20歳)     土田 彩子
                            野村 俊樹(30歳)    小熊 好弘

                               (客演)

 

■協力  県立三条東高等学校
       県立吉田高等学校
       県立新潟翠江高等学校

■主催  劇団 共振劇場

■後援  燕市教育委員会

 

どうも昔から広々したところは苦手で、どちらかというとごちゃごちゃとした狭いところが好きなようだ。小さいころ一番好きだった場所はテレビの下だった。テレビに下なんてあったのか?ありました。そのころテレビには細長い足がついていて、今考えるとさして大きくもないブラウン管と床の間には子供が潜り込める空間があったのでした。何しろテレビの下なので、そう安全ではないはずである。たぶん親にはやめるように言われていたはずであるが、どういう訳か何かあるとそこでじっとしていた。なぜだか今もってわからない。

次に好きなのは、これは定番だが、押入の中だった。暗い押入の中、壁と布団に挟まれてじっとしていたのを覚えている。押入の外は日曜の昼下がりで、テレビからは時代劇の勇ましい音楽が流れていた。テレビを見るより暗闇で外部の世界の音を聞く方が好きだったのか。よくわからない。

さて押入よりも子供にとってワクワクする場所が実は当時の家にはあった。そのころ家には仕事の関係で、段ボール箱やらビニールに梱包された大量のちり紙、鼻紙がおいてあった。トイレットペーパーとかティッシュとかではない。ちり紙、鼻紙である。おそらくそれらはさらに田舎の雑貨店に卸されるための商品だったのだろう。子供には一生かかっても使い切れない量に思われた。そのちり紙の束が壁によせて高く積み上げている場所があった。以前は確か店舗として靴屋さんに貸していたスペースだったのだが、そのときは車を入れるスペースになっていた。小さな軽自動車だったような気がする。もちろん仕事のための車で乗用車ではなかった。フロントの部分に風を入れるための穴があいていて夏はそこから足下に風が通るようになっていた、そういう車である。

昔の家には車庫なんてものがあるわけがなく、玄関だかお店だか、とにかく部屋にあがる手前のセメントを打ったスペースに車を止めいていた。家も小さかったけど、車も小さかった。そしてその車を取り囲むように壁沿いにちり紙が積み上げられていたのだった。その店舗跡のような、土間のようなスペースの壁二面がちり紙の壁になっていた。そしてその積み上げられたちり紙や段ボール箱と壁の間にできた隙間が遊び場になっていた。

今「できた隙間」といったが荷物を積み上げるときにわざわざ隙間ができるように積み上げるはずがないから、おそらくは隙間は作ったのである。小さな子供の体をぐいぐいとちり紙の包みに押し当てて徐々に隙間を広げ、少しずつ通路をのばしていったに違いない。身をかがめ少しずつ少しずつ。堅い段ボールの箱に阻まれてもうそれ以上いけないときには上の方にルートを見つけて、アップダウンのあるコースを開拓していった。そうしてルートは伸び、時には壁の隙間ではなく、荷物の上の空間に出てはまた下におり、そしてこれ以上はももう前に進めないという、最終地点まで行った時は、なんだかうれしくてたまらなかった。

いったんルートが完成しても新たに荷物の積み替えがあると新ルートを開拓しなければならない。誰が最初にゴールにたどり着くか、従兄弟や弟と先を争った。まあ親は何をしているか、分かっていたと思うが、考えてみたらちょっと危ない遊びではあった。壁と荷物に挟まれて動けなくなってそのまま行方不明なんてことになっていたかもしれない。引っ越しの時に大きな荷物を動かしたら、小さなひからびたネズミやゴキブリが出てきたなんて話を聞いたことがあるが、なんとかそうはならずに、大人になることができた。めでたいことである。しかし本当に子供というのは私に限らず狭いところが好きなようだ。気をつけねばなるまい。

さて、そうやって狭いところを好む子供もやがて広い場所へと出ていくことになる。成長するのである。だが、成長した大人にも二種類の人間がいるようだ。狭いところがつまらなく思えて自ら好んで広い場所へと進んでいく者。それから本当は出ていきたくはないがしょうがなく広い場所に出ていく者。どうも私は狭いところの方が落ち着くようである。

田村 和也
(チラシより)

 

昔、よい子は皆8時になると寝ていたものだった。8時以降は大人の時間という事で、とにかく子供は無理矢理蒲団の中に追いやられたのだった。よそのうちではどうだったかわからないが、我が家ではそうだった。子供心に、それはちょっと早すぎるのではないかとは感じていた。いくら当時でも、8時を回ったらスッパリと子供の番組が終わり大人の番組だけになるなんて事はなかったはずである。学校でもテレビの話をしていて私の知らない番組名が友達の口から結構出ていたりしていた。まあ、うちは早かったんだろうな、子供を寝かしつける時間が。河童の三平見たかったなあ。

もっともその少し後に知る事になるのだが、私が番組名を知らなかったのはその番組の放送時刻が8時より遅かった為だけではなかった。当時我が家ではまだUHFの電波を受信する事が出来なかったのだ。ある日近所の友達の家に行き我が家のテレビには映らないアニメが映っているのを見て愕然とした事がある。そうなのだ、当時はコンバーターという小さなマシンをテレビにつないでUHF放送を見ていたのだ。その後すぐ、親にせがんでコンバーターを買ってもらったのは言うまでもない。

まあそれはさておき、8時になると、とにかく寝なくてはならなかった。「まだ眠くない」当然のように子供は言うのだが、「眠くなくとも蒲団に入って目を閉じろ」とこれまた当然のように親は言うのだった。そしてやっぱり子供なんだろうな、蒲団に入ってちょっと悔しい思いをしているのも束の間、5分も経たないうちにすやすや寝息を立てていたような気がする。まあ、5分というのはいい加減だけど、きっとすぐに寝てしまっていたに違いない。眠れなくて困った記憶や、もっと起きていたいと強く親にせがんだ記憶がないから、多分、いい子に寝ていたんだろう。

そんな我が家でも夜遅くまで起きていていい日があった。土曜の夜である。「明日は休みだから今日は少し遅くまで起きていてもいい」そう言って親も許してくれたのだった。そんなわけで「8時だよ全員集合」は毎週見る事が出来た。いやーほんとに全員集合してやなあ。いったい当時どれくらいの家族がテレビの前に全員集合してたんだろうか。

時々親が顔をしかめるギャグがあったり(食べ物を粗末にするシーンがあるとやはり本気で怒っていたなあ)子供が親の前で顔を赤くするようなギャグがあったり(意味がわからないフリをするのだが、ばれていたんだろうなあ)当時としてはいろいろあったんだろうが、今考えてみればまあ、家族で楽しめるつくりにはなっていたと思う。テレビを見ると馬鹿になるとは、当時から言われていた。しかしもう少し正確に言うと「テレビしか見ないと馬鹿になる」だろう。一週間に一回、家族そろって馬鹿になるのもいいかなあと思う。

それにしてもである、今考えるとあの番組は本当にすごかった。視聴率とかではない。どうして一週間であれだけの密度の番組を作り続ける事が出来たんだろう。しかも生放送。一度本物の車が宙を飛んで舞台に現れ家のセットの屋根にずどんと落ちてくるという場面があった。少なくとも車体は本物だったと思う。

とにかく土曜日夕方から人気のアニメ(まんがって言ってましたけど)が続き、最後は全員集合があるので本当に楽しみにしていた。番組で覚えたギャグは親の前で披露したり、大きなお寺の境内で、子供同士で披露し合ったりした。当時、テレビのせいで家族が向き合わなくなったと言われたが、少なくとも小学生も中学生も、子を持つ親も、同じギャグで笑っていた気がする。そう言えば、その逆に、大人の恋を歌った歌謡曲を小学生が意味もわからずに口ずさんでいたりしていた。今考えるとこれは結構すごい事かも知れない。

今の若い人達はきっとドリフなんてつまらないと思うんだろうな、いや私自身、今見たらつまらないと思うんだろうな、そう思っていたら全員集合のDVDが発売された。買ったのは私ではなく高校生。少しだけ一緒に見た。案外、いやまだまだと言うべきか、面白かった。そして高校生達にも結構うけていた。ふふ、すごいぞドリフターズ。ちょっと安心した。

田村 和也
(公演当日配布パンフレットより)

 


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