蝉の声の止む頃に

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■作、演出    田村 和也

■舞台監督   霜鳥 克彦

■照明      沼田 拓

■音響      高森 優作

■美術      霜鳥 克彦
                         鶴巻 昌洋
                         高橋 直樹

■宣伝美術   吉田 義浩

■制作、音楽  大作 綾

■出演      野崎 春子(30歳)  大作 綾
                         野崎 清美(38歳)  高橋 美紀
                         村上 俊雄(34歳)  皆川 茂信
                         中野 良平(50歳)  渡辺 晴雄

 

■主催  劇団 共振劇場

■後援  燕市教育委員会

 

小学生の頃、家から学校までは大体いつも同じ道だったが、帰りはあっちへ行ったり、こっちへ行ったりと、ふらふらしていた。学校から近い家の女の子の家まで、まずはいっしょに帰る。校門を出てからわずかな距離で100メートルもなかったと思うのだが、その間も道路より少し高くなった部分をまるで平均台の上を歩くようにして帰ったりして、すぐそこの家なのに結構時間がかかったりした。そして、その後は一人になる。大人の感覚で言うと自分の家も学校から遠くにあるわけではないのだが、そのころはえらく遠くにあるような感じがして、その女の子がうらやましかった。

一人になるとどういう訳か、僕はうつむき加減で歩いていたように思う。どっちに行こうという明確な意志を持たず、交互に動く自分の足だけを見て歩いていたようだ。だから、ふと気がついたらこんなところに着いていた、ということが結構あった。もっとも、こどもの足なので、そうとんでもないところには行かなかったが、多分子供というのはそんな風にして迷子になるのではないだろうか。

ふと気づいて足を止めるのは大概工場の前だった。そういうところで足が止まってしまうと延々とその工場の作業を眺めることになる。多分工場で働く人たちは(場合によっては一人の時もあったが)子供の相手をするほど余裕はもちろんなかったのだろうが、しかし子供を追い払わずにいるくらいの心の余裕はあったのだろう。子供は相当に無遠慮な視線を投げかけていたのが、さして気にもとめずに、黙々と作業をしていた。いや、あるいは逆に、ちょっと誇らしげな気持ちでいたのかもしれない。そう思えるほどにおじさん達の背中はかっこよかった。

中でもかっこよかったのは鋳物工場のおじさん達だった。他にもいろいろな工場の前で足が止まったが、しかし、何と言っても鋳物工場だった。溶岩のようにどろどろになった鉄を鋳型に流し込む様を息をのんで見ていた。実は大人になってから同じような作業を高校生がするのを見て感動した覚えがあるが、なにしろそのときは小学生である。働くおじさん達はなんかとってもかっこよく見えた。工場で真っ黒になりながら脇目もふらずに働くことが子供の目にかっこいいと映る時代だった。

一生懸命働くことや、努力することの価値を誰もが疑わず受け入れていた。そして子供は道草をしてはいけません、と言われながら道草を食うことを許されていたし、時には迷子になることさえ許されていた。学校から帰る途中に立ち寄った工場や、製材所、あるいは丸太の保管場、今はもうなくなってしまったが確かに記憶している場所がたくさんある。子供というのは色んな光景を吸収しながら自分の世界を構築していくのだなあ、と今になって思う。そしてたぶん僕はまだ自分の世界を構築しきれていないのだろう、実は未だにほっつき歩くのが好きである。

田村 和也
(チラシより)

 

25年以上も前、冬休みに友だちの家に遊びに行った。別に何をするわけでもない。居間で、友だちの家族といっしょに餅を食べたり正月のスペシャル番組を見たりして、のんべんだらりと正月の午後を過ごした。部屋の中は石油ストーブが焚いてあって、その側にいると身体がかっかとするのだが、くつろぐには足下が少々寒いのでこたつに足をつっこむ必要があった。さすがにこうすると足はぬくぬくするし背中はストーブの輻射熱でかっかするし、頭のあたりは暖かい空気の層があるようでほんわかしていた。いやーあったかい。極楽だ。餅はうまいし、蜜柑もうまい。窓の外は小春日和。いつもとちがってやけに明るい。こうしてだらだらテレビをみるのもいいな。

友だちのお父さんはもうだいぶお酒が入っているのでもう上機嫌だ。午前中にホームセンターに車で出かけてあれやこれや買ってきた話しなどをしていた。自分の家では郊外のホームセンターで必要な物を車で買いに行くということができなかったし、そもそもそうところで売っているものを必要とする暮らしをしていなかったので、その話しはずいぶんと新しいことのように思えた。実際友人のお父さんはメタメッセージとしてそのことを伝えたかったのかもしれない。車で郊外のホームセンターに乗り付けて何でも買ってしまう、今では当たり前になってしまった生活がそのころ始まったんだなと、今思う。同時に歩いていける範囲のお店がきっとさびれていったんだなとも。コンビニはまだこのあたりにはなかった。

お茶を飲んだり蜜柑をばくばく食べたりするで、トイレに行きたくなってくる。こたつから出て立ち上がるまではさほどではないが、ドアを開けて廊下に出ると真冬の寒さが身を包み思わず身を縮こまらせて両手で自分の身体をかき抱くようにして腕をさする。寒さを表現するパターン化した身振りも、昔はけっこう有効だったのかもしれない。トイレもまた寒かった。1,2分部屋の外に出ていただけなのにすっかり冷えてしまう感じがした。用をたして部屋に戻ると暖かい空気がもわっと押し寄せ、そしてめがねが曇って何も見えなくなる。まずはめがねの曇り、と言うよりは結露をぬぐって再びこたつに入る。

そうこうしているうちに友人と外出することになった。何をしに行こうとしたのか覚えてないが、きっと間が持たなくなったのだろう。コートを着込み玄関先に出る。外は寒い。だが昼下がり、太陽が動きの速い薄い雲に姿を現したり、隠れたり。明るくなったり、ちょっとかげったり。雪は降ってなかった。慣れてくると時折吹いてくる冷たい風もそれはそれで気持ちいい。だが道路にはシャーベット状になった汚れた雪が残っていて、ちょっともの悲しい感じがしないでもなかった。それから友人とどこへ行ったのか覚えていない。単なる時間つぶしだったのだろう。

考えてみると、今はこういう寒さを感じることがなくなった。家は割と広い範囲で暖房をしているし、外に出るのも車を使うのでドアからドアで、寒さを感じる間もなくなりあまり着込むこともなくなった。めがねが曇るのは皆無ではないが、最近はラーメン屋ですらめがねが曇らなくなった。暖房の仕方が今と昔ではちがうのだろうか。それとも常に暖かいところにいるようになったせいだろうか。昔はいつも手がかじかんでいたような気がする。

そう言えば子供の頃わからなかったのは、「チャコちゃん」や「ケンちゃん」シリーズの中で男の子が半ズボンをはいていたことだ。冬なのにどうして半ズボンなんだ?僕にはわからなかった。女の子がスカートなのはまだ納得できた。冬でもスカートをはいていた女の子は周りにいたからだ。ただし、厚いタイツをもはいていたが。もちろん冬でも半ズボンをはける理由は親から教えられてはいたのだが、よく理解できないでいた。「雪が降らないとはどうゆうことだ。それはテレビだからか」と訳のわからないことを考えていた。

地域によって天候も文化もちがっており、テレビドラマはおおむね東京を舞台にしており、更に言えば東京の住人を対象に作られている、というようなことが、小学生低学年ではわかるはずもなかった。そして冬になると半ズボンをはけない自分に納得がいかなかった。やがて年相応にブラウン管の中の世界が作り物であると知り、おそらくは同じ時期にテレビの中の子供が冬でも半ズボンをはける理由を頭では理解したに違いない。

この友人と歩いた1年か2年後、僕は関東で一人暮らしを始めることになり、初めて冬でも半ズボンをはけるリアリティーを感じることになる。ああ、なるほどなあ。以来冬半ズボンをはかせてくれなかった親の判断は正しかったと思ってきた。だがこの思いが最近少しあやふやになってきている。最近のことだ、高校生が短いスカートに真っ赤なストッキングで街を歩いていた。やけに派手な色のストッキングだなあ。そう思って見ていたら実は脚全体が吹雪のなかで真っ赤になっているのだった。はは、なあんだ、やればできるじゃないか。いや、でもやっぱり親の判断が正しかったんだろうな。

あの頃からずいぶんと時間が経ち、自分の周りからいろいろな人がいなくなった。離れた場所に移っていった人もいるし、この世からいなくなった人もいる。人がいなくなると残された人はどうするのだろう。死者の場合。そしてそうでない場合。残された人同士の間に横たわる空白はどんなふうに埋まっていくのだろう。あるいはどんなふうに余白を残すのだろう。今回、多分そんなことを考えていたのだと思う。

田村 和也
(公演当日配布パンフレットより)

 


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