ビタミンF(作・重松 清)
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■演出 田村 和也 ■舞台監督 鶴巻 昌洋 ■照明 丸山 悦男 ■音響 霜鳥 克彦 ■宣伝美術 吉田 義浩 ■制作、選曲 大作 綾 ■出演 大作 綾 |
20代の頃山野を歩いていて不思議な感覚に襲われた事がある。歩いているうちに余計な意識や景色が消えていき、全身が知覚するものが空の青と木々の緑と蝉の鳴き声だけとなってしまった。感覚は鋭敏になり、世界に人は自分一人であるかのように感じられてしまったのだった。気持ちがどんどんとニュートラルになっていき、全てから解き放たれたような気分に浸った。とても孤独なのだが、その孤独がとても心地良かった。 なんだか宗教体験のような事を書いたが、何の事はない、ランナーズハイのようなものだったのかも知れない。こういう孤独は大袈裟に言えば人を豊かにする孤独だ。それは帰るべき家のある孤独であり、笑顔で迎えてくれる人達が待っていてくれる孤独だ。例え一人暮らしのアパートの部屋には誰もいなくとも、笑顔の人達の存在を想像できる孤独で、外部に繋がった孤独だ。ああ、良い気持ちだ。やっぱり人間、健康が一番。そんな健康的な事すら考えないほど健康的だ。 今日はきっと筍や山菜で一杯やるんだろうな、いろいろ取るのが好きな人がいるからな。渇いた喉に凍らせたジョッキでビールを流し込む、うまいだろうなあ。などと考える事もなく、ただひたすら歩く。二件目の店ではレーザーカラオケというもので盛り上がるか。ふふ。山歩きの行程も終わりに近付き、足の疲れを冷静に感じられる事になるとそんな事が浮かんでは消えるようになる。ああ、なんだかとってもメリハリのある一日だなあ。 ちょっと項垂れてしまうのは、例えば満員電車の中で味わう孤独。全く関係のない人達からの会話が意味を持たない音として耳に届く。帰るべき場所のない孤独。明かりのついていないアパートに帰るしかない孤独。例え家族が寝起きする家であったとしてもそれが明かりのついていないアパート程度の意味しか持っていない場合のそれ。勿論、家族がいつまでも無条件に居心地が良いなんていうのは幻想で、どこかしら座りの悪さを感じながら子供は徐々に行動半径を大きくしていくのだろうが、しかしその描く円がきれいな円でなくなったのは一体いつの頃からだろう。そして、中心の点が中心でなくなり、きれいな曲線が恣意的なアンバランスなものになったのは。話をしながら視線はこちらの身体を通り抜けていく、そんな孤独はいつから始まったのか。どうも我々のメンタリティーは孤独を嫌っているのに、我々を取り巻く現実はまるで先回りをして、出口のない孤独を用意しているようだ。孤独が倦怠に繋がるのか、倦怠が孤独を招くのか、どっちなんだろう。 そんな事を考えながらも、元気良く登校する小学生を見て思わず元気が出てくる自分の単純さにちょっと驚きながら、あ、まだまだ大丈夫だ、おれ、と確認する僕みたいな人、思ったより多いのかも知れないなあ。 田村 和也 |
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